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「……遅いなあ」 暦はとうに四月を迎えていた。開け放した窓からはどことなく甘い香りを孕んだ風が入り込む。日暮れの時刻も随分と遅くなったように感じられた。冬だったなら既に宵闇に覆われているだろう時分でも、未だ空は明るい橙色をしている。夕食の準備をするにはまだ早いが、他に何もすることがない。こういう時、普段は何をしていたっけ、と考えるのだけど思い出せそうにもなかった。ソファに座り外を眺めているだけでは時間が過ぎるのは遅い。 「ね、ミニリュウ」 横にいるミニリュウは大きい眼を嬉しそうに細め、首を何度も縦に振った。この子はワタルさんが譲ってくれたもので、そういえばもう長い付き合いになる。そろそろ進化するのだろうけれど、そういった兆候はまだ見えない。気難しいことで有名な竜族の子だからと始めはどう接すればいいのかと困ったものだけれど、卵から孵ってからしばらくはワタルさんが世話をしていたからか、それとも元々そういう気質だったのか、随分と人懐っこく無邪気に育ったようだった。 なんとなく手持無沙汰になってしまって、両腕を伸ばしてミニリュウを抱きかかえる。決して軽いとは言えない体重だけれど、これくらいならば問題ないだろう。そうして頬を擦り寄せるようにすれば、腕の中できゅう、とミニリュウがひとつ鳴き声を零した。 手持無沙汰、というよりは、寂しさのほうが強いのかもしれない。朝、彼が家を出る時に告げていた帰宅の時間は大幅に過ぎている。彼が忙しい人だということは十分に理解している。とはいえ、寂しいと感じるのを止められるほど私の理性は強固ではないようだった。ミニリュウごとごろりとソファに寝転がる。温かい体温を抱えながら、眼を閉じる。 「今日は早く帰ってこれるって、ワタルさん、言ってたのにね」 ――次の休みにでも、ゆっくり買い物に行こうか。花を買いに。 あの穏やかな朝の会話から、もうたっぷり二週間は経っていた。次の休みがいつになるかは、正直なところ私には分からない。実は先週の日曜に行く予定だったのだけれど、その前日の夜にあったリーグからの急な要請で、彼は休日返上で書類のチェックをするために仕事へ行ってしまった。 彼は忙しい人。何と言っても、あのポケモンリーグの頂点、全てのトレーナーの憧れなのだ。チャンピオンとはいえただバトルをしていればいいというわけではなくて、チャンピオンだからこその仕事も多い。それも知っている。彼が夜遅くまで書斎で資料の確認をしていることも知っている。 全て知っている。あの桜並木で、共に暮らそうと言われた時から覚悟はしていた。覚悟はしていた、つもりだったのだが。 腕に抱えた体温がゆるゆると動く。何となく手放したくなくて更に抱きこむように力を加えると、それは小さく鳴き声を発したけれど、それすらも何だか遠いところで起きている出来事のようだ。耳が遠くなってしまったかのようにぼんやりとしていて、そうしていたからか頬を撫でる別の体温に気が付かなかった。 「――」 耳元でそう囁かれて、ばちっと眼が冴えた。一瞬緩んだ腕からミニリュウが抜け出して、ソファから滑り床を這う。「起きたか?」と私の頬をするりと撫でて、その人は苦笑した。夕暮れのような真っ赤な髪、凛々しい眼つきはいくらか和らぎ、口の端を引く柔らかな笑み。ソファの上で勢いよく身を起こした。 「あ、わ、ワタルさん……?」 「ただいま。遅くなってすまなかった」 「いえ、お、かえりなさい」 「随分寝入ってたが、昼寝か?」 「いつの間にか寝てたみたいで――って、ごめんなさい私、夕食の準備……!」 窓の外、夕焼けは既に夜に近付き、群青よりも尚濃い藍色をしている。あわあわと慌て始める私を見て、ワタルさんはおかしそうに咽喉の奥で笑った。すぐ作ります、と言い立ち上がりかけて、ふとソファ前に置かれたローテーブルが眼に入った。何の装飾もないシンプルで、そして少しばかり殺風景だと感じられた黒いローテーブルは、しかしいつもとは様相が異なっていた。 そこには、小さな鉢植えがひとつ置かれていた。 「少しコガネまで行ってきたんだ、花を買いに」 ぽかんとした表情を浮かべる私の前で、彼は床に片膝をついたまま口を開く。鉢植えから視線をそちらへ動かした。帰りが遅かったのはコガネへ行っていたからか、と一人で納得して、どうして花なんて、とそこまで考えて、二週間前の会話を思い返す。一緒に、花を買いに、コガネへ行こう、と。二人で行こうと言っていたのに。ぼろり、と口から言葉が滑り落ちる。 「……一緒に買いに行こうって、言ったじゃないですか」 「だから下見のつもりで行ったんだ。今日は何も買わずに帰るつもりだったんだが――店員の話を聞いたら、これを買いたくなって、それで買ってきた」 跳ねた髪すらいとおしむように、彼は私の頭を撫でる。子供をあやすような手つきに、胸の辺りがちりちりと痛んだ。私は、休日にワタルさんと二人で出掛けるのをとても楽しみにしていたのだ。部屋に飾る花を買いに行くことを、とてもとても楽しみにしていたのである。それを、彼は一人で勝手に済ませてしまった。彼は私が怒っているのを分かって、こうして頭を撫でているのだろう。全て見透かされているような気がして、ますます私は面白くない。白い鉢植えをじとりと睨む。 「飾る花はこれ一つってわけじゃないだろう。俺は、これをに贈りたかったんだよ」 「……ありがとうございます」 「そうむくれるな」 「これ、何ていう花ですか」 「ベゴニアだよ」 ベゴニア。彼の言葉を繰り返すように呟く。桃色に咲く控え目な花だ。贈り物の花としては――あまり派手ではない。小さな花弁は確かに可愛らしいけれど、どちらかと言えば地味な部類に入るだろう。しかし彼は、とても大切なものを呼ぶように静かにその名前を口にした。ベゴニア、と。 どうにも今は心がささくれだっているみたいだ。彼が一人で花を買いに行ったことも、その花をとても大事にすることも、何もかも面白くない。 「どうしてこの花を選んだんです?」 「可愛い花だろう?」 「そうですけど、」 「店員が花言葉を教えてくれてね、それで一発だった」 はな、ことば。 ワタルさんには似合わない言葉だ。そう思ったのが顔に出ていたのか、私を見て彼は肩を竦めた。どうして、そんな、いきなり。混乱する私を彼は待ってはくれなかった。じっと見据えてくる双眸に、射止められたように身体の動きが止まる。 「いつも、すまないと思ってるんだ。朝は早いし、帰りは遅い。休みだってゆっくり一緒にいられない。寂しい思いをさせてるのも、分かってる」 「なん、ですか。急に」 「でも、俺はを手離すつもりはないし、ずっと、こうして一緒に暮らしていけたらと思うよ」 「ワタルさん、」 「朝はに起こされて、帰ってきたらが俺を待っていて、そして一緒に眠る。今が、すごく幸せなんだ」 「なに、言って」 「ベゴニアの花言葉だよ」 その花の名を告げた時のように、慈しむように彼は言う。 「幸福な日々、だそうだ」 ――胸が、ぎゅうと締め付けられるようだった。それこそ彼が幸せそうに、この世界の全ての幸福をその手に抱えてしまったみたいに笑うから、眼の奥がじんとした。その滲みはそのまま瞳から零れ落ちて、ワタルさんがまた頬を撫でる。ぼろぼろと溢れる涙は止まりそうになかった。ぼやける視界に、白い鉢植えの、桃色の花を見つける。 どうしようもなくなって、その腕の中に飛び込んだ。彼はやはり笑ったままで、緩やかに私の涙を拭ってくれる。胸に顔を押しつければ、困ったように溜息をついて、それでも頭を撫でてくれる。躊躇いなく背中に回された腕の力強さに、このひとでよかったと、心からそう思った。 「私だって、」 「どうした?」 「私だって、幸せです、今、ものすごく」 朝早く家を出て行くのを見送る時や、夜遅くにベッドへ彼が入ってくるのを待っている時。彼がいないこの家にいると、確かに残り香はそこにあるのに彼がいないから、寂しくて仕方がないのだ。でも、それが辛くて苦しいものなら一年も我慢しない。私がこうして彼の帰りを待っていられるのは、彼との時間が一番の幸せで、それまでの寂しさなんてたったそれだけでなくなってしまうからだ。 「俺もだよ」 柔らかな声で、彼は言った。頬に宛がわれた手が上を向くように誘い、そのまままるで私たちの間に引力が働くみたいにして口づけをする。視界の端で、桃色の花が微笑む。私たちはこうして、たくさんの幸せを胸に抱いて日々を過ごしていくのだろう。 (20120514) |