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視界は闇色に染まる。窓の外からの灯、月の光は余りにも朧げで果敢無げで、自分の身体の輪郭すら満足に溶明させてはくれない。身に付けている白衣も両手の絹の手袋も、その色の深さに沈んでいくような。教団の廊下に響くのは自分のブーツが立てる足音だけで、その音の確実さだけが私をここに存在させてくれているように思えた。それが無くなってしまえば、ここは本当に闇になってしまう。夜を畏れている訳ではない、それならばどうして、書類を抱えるこの手は震えているのだろう。月はずっと世界を見ているのに、それでも救いは差し出さない。叶うのならばあと少しでいい、よりこの存在を浮かび上がらせる強い光を。 ――――かつん、 まるで思考を断ち切るように。夜には似合わないほどの確然さを伴って足音が響く。その突然なことに肩はびくりと跳ねることで反応し、一瞬の間を置いてから私は振り返った。深い深い闇色の視界の端で、それとは似て非なる色が揺らぐ。 「――かんだ、さん……」 ごく自然に唇から零れ落ちた彼の名は、彼本人の足音によって掻き消される。かつん、かつんかつんかつん、かつん。ブーツの底が静かに立てるその音は、それが重なる度により強いものに変ってゆく。灯は相変わらず頼りないのに、彼の姿はどうしてかよく見えた。その背を追うように揺れる長髪も、身に纏う団服も、この夜と同じ色をしているはずなのに。それを見つめるしかなかった私の前で、その足音は止まる。 「あの、神田さん、」 「――お前、」静かだった。「……まだ起きてやがったのか」 「え、――」 返事をする前に、彼は私の横を通り過ぎた。ひら、と高く結った髪が闇に泳ぐその様を呆然と見つめて、それから後ろを振り返る。もう彼は数歩離れた所を、その背を向けて歩き出していた。 「――あ、」情けなく声は震える。「あの!」 雲が切れ、月の光が強さを増す。ようやく自分の白衣の色が眼に映って、安堵した。彼の髪のひとつひとつにも光は広まって、まるで鮮やかで柔らかなヴェールのよう。揺らぐ闇色、それでも彼の姿は酷く鮮明だ。同じ色なんかじゃ、ない。 「何だ」 足を止めて、振り返る。 「まだ何かあるのか」 「任務、お疲れ様です ――――おかえりなさい」 一瞬、彼が瞠目したように見えた。月の沈黙がその場に満ちて、けれどそれは決して重苦しいものではなく、優しい灯となって巡る。 「お前……――、……もういいからお前はさっさと寝ろ。どうせまた徹夜で仕事とかやってんだろ」 「……神田さんだって、任務ばっかりで寝てないんでしょう」 「俺はいいんだよ。お前は寝とけ」 初めに何かを言いかけた神田さんは、結局数秒の間を置いてから、私に就寝するように言った。何を言いかけたのかは気になったが、訊くのは止める。何となく彼の言いたいことは分かっていたし、彼もそれほど隠す気はなかったのかもしれない。おそらく彼は私が遅くまで起きていた本当の理由に気付いていたのだろう、だから私もそれを言う必要はなかったのだと、思う。どちらにしろ、あなたが任務から帰ってくるのを待っていた、なんて恥ずかしくて言える訳がないのだからそれでいいと思った。 Clair de lune
どこまでも円やかな月は すべてを見ていた (20070403) |